EXPO2025では奈良県橿原市立金橋小学校の児童たちが賛助出演してくれました
万博公演公演を終えて(1)
波乱万丈の日本旅行・万博公演が終わり、ワガドゥグへ戻って1週間目。残務処理やら何やらに追われて休む暇もない有様です。でも、あまり遅くなりすぎないうちにご報告をさせていただきたいと存じます。
オペラ・プロジェクトを開始してから5年半が経過しようとしています。万博での公演は決して私の目標でもゴールでもありませんでした。私の目標は興味のあるオペラというジャンルに西アフリカの強力なDNAを加え、全く新しい様式のオペラを作ること。そしてそれは同時に、グローバリズムと、文化さえも観光資源として売りに出そうという各国政府の振舞い、「ONE WORLD、ONE PLANET」を謳いながらも各国の文化をブランディングしたがる傾向…そんな全てに大いなる疑問を呈示するための取り組みでもありました。そして、強大な勢力にコントロールされているメディア、溢れんばかりの情報の洪水に溺れ、何でも知ることが出来ると容易に錯覚しかねない状況で、実は重要な事実でも全く報道されていないことがままあるという現実。ブルキナファソで暮らすうちに、この現実を否応なく突き付けられ、その中で芸術に携わる者として今、何をしなければならないのかを考え続けてきました。
万博で公演することは、そういった、現状を牛耳る勢力の企画する祭典の真只中で、芸術の力によって、この世の有様に対する大いなる批判と疑問を突き付ける絶好の機会だと思いました。
しかし、当然ながらそれは決して簡単なことではありませんでした。ブルキナファソは今回の万博に途上国支援の対象として参加しました。出演者、音響や映像のスタッフを含む10名が万博に招待されましたが、オペラ公演はあくまでもボランティア公演としての位置付けでしたので、入場料を取ることはもちろん出来ませんでしたし、公演したナショナルデーホールに備わっている設備以外に必要なものは全て自力で用意しなければなりませんでした。ところが今なおテロリストとの戦いに明け暮れるブルキナファソ政府からは1円の支援も受けられず、(個人にとっては)かなり莫大な費用を自力で準備するために2024年2月末から2025年4月末まで日本へ帰りました。が、円安などの状況でスポンサーを得ることも難しく、全ての当てははずれ、8ヶ月が経過した時点でほとんど何の成果も得られず、途方に暮れました。10月のある日、内閣官房事業・万博国際交流プログラムというものの存在を教えてくれた人がいて、その時点でもう応募が締め切られているかも知れないと言いながらも、情報リンクを送ってくれました。実際、その時点でこの事業は第九次募集を受け付けていました。しかしこれは、私が自分で申し込めるものではなく、全国の地方自治体が万博参加国の一つを選び、その国との交流を深める事業のために登録申請をするものでした。私は奈良県橿原市を含む5つの地方自治体に登録申請をお願いしましたが、人が足りなくて余計な業務を増やしたくないという理由で4つの自治体から断られ、橿原市だけが受け入れてくれました。
2025年が始まる頃にようやく令和6年度事業をスタートさせましたが、まだほとんど活動らしい活動も始めていないのに膨大な書類作業に追われるばかりで、こんな調子では令和7年度はいったいどうなってしまうのだろうと頭を抱えました。結局、会社を設立して橿原市から委託を受けて事業を進めるしか道はないと悟り、大学時代の同期生の助力を得て合同会社を立ち上げました。
いち早くワガドゥグへ戻ってリハーサルを始めたいのは山々でしたが、資金が用意出来なくては万博公演は実現しませんから、帰るに帰れず、滞在は長引くばかり。この間実家からも「いつまで滞在するやらきちんと頼みもしない」と嫌味を言われて、居辛さのあまり、急遽三重県熊野市に部屋を借りて移り住みました。膨大な作業の合間に、冬の熊野灘で泳ぎ、海底の珊瑚礁や魚の群れを眺めてはひとときの慰めを味う日々でした。
4月20日にようやく日本を発ったものの、ブルキナファソのVISA発給を待ちながらドイツでさらに2ヶ月近くを過ごし、ワガドゥグに戻ったのは6月半ばでした。バンドメンバーを伴っての日本行きまであと5週間しかありませんでした。その頃には様々な経緯から、オペラ公演のみならず、万博での公式式典での40分間の演奏も頼まれてしまい、オペラとは全く別の5曲をマブドゥに用意してもらっていましたが、私はその全てを5週間でマスターしなければならず、依然として続く万博事務局とのやり取りで忙殺される中、ともかく1分1秒を惜しんで準備に努めるしかありませんでした。
出発当日(現地時間7月23日朝4時50分発の飛行機でした)はものすごい雨が降り、私たちの住むあたりは道路が川のようになってしまいました。それでも何とか空港へたどり着き、無事出発し、初めて飛行機に乗ったマブドゥ、ラミッサ、ヤクバは大興奮。でも機内のトイレの使い方も何もわからない彼らに現場でいろいろ教えるのはなかなか大変でした。イスタンブールでの乗り換えは、なんと次の便を待つこと11時間50分!! 日付が変わってようやく関西空港行きの便に乗り込み、10時間近いフライトで7月24日夜7時頃に関西空港に着いた私たち。検疫でイブラヒムが引っ掛かり、(39度1分の熱でカメラが反応)そのまま空港内のクリニックへ。私の下手くそなモレ語通訳による問診後、直ぐに血液検査が行われ、あろうことかデング熱と判明。その後も延々と続く検査や質問攻めの末、ようやく2時間半後に入国させてもらいました。が、既に22時を過ぎて閑散としたラゲージクレームに寂しく取り残された私たちの荷物を引き取ろうとしているところへ麻薬捜査犬を連れた警察の方々が!すると犬が私たちの荷物のうち2つに異常に興奮して反応するではありませんか!メンバーの誰かが違法薬物を持ち込んだのかと、私は啞然…でも山羊革を張った太鼓の匂いに犬が興奮しただけでした。
翌朝9時から金橋小学校で子どもたちとのリハーサル開始なのに、イブラヒムを奈良県立医科大学病院の感染症科へ連れて行って受診させろと至上命令が下り…。すべて綿密に計画を立ててありましたので今更リハーサル時間変更など不可能。ですがブルキナファソ大使館や万博の事務局の人々が病院への付き添いをしてくれるはずもなく…結局ブルキナファソ在住の日本人ダンサーで今回もオペラに参加してもらっている吉田さんに病院への付き添いをお願いしました。この後も次から次へと起こる予想外の出来事の連続で、まともに眠ることすら出来ない私の姿に気を遣ったマブドゥは、歯の激痛を私に告げることを躊躇。ひたすら何でもない顔をし続けていましたが、あまりの痛さに遂に自分でその歯を抜いてしまったんです!翌日遅くなってからそれを知った私は、衝撃のあまり目眩がしました。せっかく保険が掛かっているのに、何で歯医者に行かないのよ?! 化膿したらどうするのよ?主演歌手無しで公演できるはずないじゃない⁈? でも「あなたがそんなに忙しいのに歯医者に連れて行ってもらうなんて、そんな迷惑をかけられない」というマブドゥ…ステージ上で見せる笑顔の裏の、凄まじい真実の一端です。(この後の報告は②に続きます)
万博公演を終えて(2)
通常、2時間もかかるオペラの舞台の仕込みは遅くとも前日から始めなくてはなりません。ブルキナファソでの過去の公演でも3日間会場を借りて仕込みをし、リハーサルを重ねてから公演してきました。ところが今回の万博公演では、当日の午前中に式典があり、それが終了するのが12:00、その後の1時間はホールスタッフの休憩時間、13:00から仕込みという有り得ない状況でした。しかもオペラの開演時間は16:00。当初それを何とか17:00にしてもらおうとお願いしました。ブルキナファソ政府の万博担当官も懸命に交渉してくれましたが、18:00からレセプション(ビュッフェ式晩餐会)があるから絶対に駄目だと万博事務局から断られました。そのため、まさにアクロバット的な迅速さと正確さで作業しなければならない羽目になりました。この無理やりな条件を突き付けられた我がオペラチームのテクニカルスタッフ達の献身的な働きと能力の高さがなければ、この離れ業は実現しなかったでしょう。とはいえ、日本人、ドイツ人、デンマーク人、台湾人、という混交チームで、出演者たち(ブルキナファソ人)との言語の壁もありましたし、70名近い小学生たちも5つの場面に出演したのですから、非常に難しい状況でした。
いろいろなハプニングもありましたが、あれだけの厳しい条件のもとで、なかなか良い公演が出来たのではと自負しています。
ともあれ、予定時間通りに公演を終えた私たちは、1時間余りレセプションに出席したあと、撤収作業を終えるために再びホールへ向かいました。規則では21:00までに完全撤収すれば良かったのですが、翌日はウクライナのナショナルデーで、彼らが仕込みをなるべく早く始めたいと言っているので出来れば早めに撤収してほしいと万博事務局から言われていたのです。レセプションへ向かう前にステージはほぼ空にしてあったので、私たちが戻ったとき、ウクライナチームは既にステージの仕込みを始めていました。黙々と働く大勢のウクライナ人たちを見ながら、戦争の最中にありながら、こうして文化事業にお金を掛けられるのは、彼らの文化への意気込みなのかという疑問が浮かびました。実際にどれほど複雑な準備を要する文化イベントをウクライナが行ったのか知りませんし、もしかしたらセキュリティなどの別の理由で準備を周到にしたかったのかもしれません。ともあれ、前夜からホールを借りるためには別途、相当のお金を支払わねばならず、私も実はそうしたかったのですが、それは到底無理なことでした。私の呟いた疑問に「本来、国(ブルキナファソ)がやるべきところを、あなたは個人でやっているのだから仕方がないよ。ウクライナはきっと国が払っているんでしょう」とテクニカルスタッフのひとりが返しました。
確かにそうなのでしょう。それにしても、私が個人でこんなことを背負い込んだのは、何もブルキナファソへの愛のためなんかではありません。縁あってブルキナファソへ行ったわけですが、今回の万博公演は私の芸術家としての使命の一環として行っているのであって、特定の人や特定の国家のためにしているわけでは決してありません。でも、それはなかなか理解してもらえず、様々に誤解されやすいのは仕方がないのですが、私の経済状況を心配してくれた身近な人々から「(そんなに頑張らなくても)万博に出演することで、バンドのブルキナファソ人たちも箔が付くのだし、そのうえ少しのギャラでも貰って帰れば喜ぶんじゃないの?」と言われたときは、さすがにショックでした。悪気なく言ったのだと思いますが、こういう発言は最も差別的な「上から目線」で、私からすると本来、許し難いものなのです。でも、もしかしたらバンドメンバーたちの中にも「そうだよ」とあっさり同意する人もいるかもしれませんから、一概に否定することも出来ませんでした。この発言は、私がまだ大学院生だった頃にドイツへ行ったとき、ドイツのラジオ局が私の作品を放送するという話を聞いたあるドイツ人に「自分の曲がドイツで放送されるなんて、あなたはさぞかし名誉に感じるでしょう」とあけすけに言われたときの違和感をそのまま蘇らせました。その時感じた不快感は40年経った今も忘れません。
でもこれは根の深い問題に違いありません。芸術活動も「自由主義経済」の支配する世の中にあって、ブランディングだの、パブリシティだのといった「消費者」へのアピールの必要性と無縁でいることは難しいからです。「芸術は消費の対象などではない」などと正論を振り回しても始まらないのが現実で、アーティストたちも皆、あの手この手の自己宣伝に大忙し、結局は「売れたもの勝ち」の世の中だという考え、そして「いかにも(すでに)売れているように見せかける」手法を競ってでもいるかのような印象を視聴者(あるいは「消費者」?)に抱かせるSNS投稿やプロフィールの作り方...そういうものを見慣れている人々から「箔が付いて嬉しかろう」などと侮られるのも、ある意味では仕方のないことです。
今回の私のように、単に作曲家や出演者ではなく「プロデュース」をする立場であると、より直接的にお金の問題に巻き込まれますので、自分のプロジェクトのブランディングはより切実な問題になります。「より多くのお金をどこかから持って来られないのは無能の証拠」とあからさまに批判を受け、挙句の果てには「作曲家なんぞにそんな能力のあるはずもないのだから、誰かに委託するべきだ」「有能なマネージャーを雇うべきだ」「お金が余りまくっている助成金もあるのになぜ応募しないのか」「クラウドファンディングで数日で大金を集めた人もいる。あなたはやり方が悪いのではないか」等々、まぁ本当に言いたい放題の「ご忠告」を山ほど受けました。確かに結局合同会社まで起こさざるを得ない羽目になりました。初めてそういう立場でお金を扱う立場になってみると、今まで見えていなかったことが見えてくるのも事実です。クラウドファンディングにしても実際にやってみなければわからないこともいろいろありました。
でも、そんなさまざまの経験を経た今も、変わらず思うのは、「自由」というものはかけがえのない、大切なものだということ。そして、その自由を守り抜くことは、実に「高く付く」ということです。芸術家として本当に自由に制作するためには、限りなく「自由個人」として在ることが大切なのです。金策に駆けずり回って、ついぞ作品に集中することのできなかったこの1年半を振り返ると本当に辛いですが、それ以前の、何の縛りもなく、何かのプログラムの一員でもない状態で、完全に自腹でブルキナファソへ渡って自由に過ごした数年間があったからこそ、ある程度納得のいく形でこのオペラが制作できたと思っています。
8月4日夜、万博会場を後にしてホテルへ戻るバスの中で、「あなたは今日の結果に満足したの?」と友人の台湾人作曲家が私に訊ねました。(彼女は今回の公演で字幕のプロジェクションを手伝ってくれました)私は啞然として答えに窮しました。ちょっと待ってよ、そんなに急かさないでよ。ある程度の手応えはあったといえども、終演直後というのは、細かいミスなどが大変気になるものです。そしてまた、自分の気付いたことなどはきっとほんの一部に過ぎず、会場で起こっていたことのすべて、私たちはいったい何ができたのか、そして何ができなかったのか...観てくれた人々に何が伝わったのか。それらはなかなかわからないことですし、これから私の人生がまだ続いていくとしたら、その中でふとした瞬間に何かがわかることもあるかもしれません。もちろん、すぐにフィードバックを書き送ってくれる人々もいるけれど、彼らだってすべてを言い尽くしているはずはないですから。公式配信、私を含めた各人がSNSに投稿する写真やビデオに対するフィードバックも次々とあるでしょうけれども、公演以来自分の心の奥底でうごめく感覚を、まずはじっくり捉えて、それを理解することに務めたいと思います。「人からどう見えるか」ばかりを気にして、「人の評価」ばかりを気にして、フォロワーの数や高評価の数、再生回数を気にして、自らの芸術をそんなもので査定するようになってしまっては、もはやシステムの奴隷、自由主義経済という名を騙る多国籍企業の巨大勢力の掌で踊る駒にすぎません。
さて、万博で公演したことは私たちのプロジェクトに箔を付けたのでしょうか?
いいえ、「万博」という催し自体に最初からステータスがあるのではありません。多くの人々の反対を押し切って開幕した今回の「万博」にステータスを与えられるかどうかは、ひとつひとつのイベントの内容、一人一人の参加者の心意気にかかっています。戦火の消えることのない世界、深刻な環境破壊が止められていない状況、その中で開催された大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」です。このテーマは、多様ないのちの尊重と一人ひとりが輝く未来を追求することを掲げています。経済だけでなく、環境・人権・教育・健康など多方面から持続可能な社会の実現を目指して。万博におけるひとつひとつの催しは、このテーマにどれほど貢献したのか...その審判を受けるのにもまた、一定の時が必要でしょう。
ブルキナファソ・お金の話
ブルキナファソは多民族・多言語社会で、以前公用語だったフランス語を含めて様々な言語が話される、いわば言語のるつぼです。その中で一つ不思議なのが、お金の数え方です。未だに、事実上フランスが発行するCFA(フランセーファ)が通貨として使われていますが、例えば1,000CFAを地元各種言語では 200と呼ぶのです。25CFAは5、5,000CFAは1,000、というように常に5で割って呼ばねばなりません。これは何故かというかというと、一番小さい貨幣が5セントだからだそうです。1セントのコインは存在しないので、5セントを1と数えざるを得ないそうです。ともかく、今でこそ慣れましたが、初期の頃はよく頭が混乱しました。私は買い物の時にもなるべく現地語を使うようにしていますが、実はCFAだと感覚的にむしろしっくりくるのです。紅茶1杯が100CFA、ランチセット(汁物、ご飯、水)が300~500CFA、アボカド・サンドイッチが100~150CFAというように。実際に円換算するためにはこの数字を4で割るのですが、そうすると現地の数え方に近い数字になります。(ブルキナファソへ来た頃はユーロが今ほど強くなかったので、5で割ればほぼぴったりでした)そういえば、この前、日本へ出発する直前にある音楽フェスに参加したときのバンド全体のギャラが40,000CFAでした。この時、10,000CFAを出発直前に空港前喫茶店で行う予定だった私の誕生日祝いのために取り除けておいて、残りの30,000CFAを6人で割りましたので、1人あたりの取り分は5,000CFAでした。円換算すると1,250円ですが、ワガドゥグにいれば日本における5,000円相当くらいの価値はあります。
さて、今回の万博公演は純粋なボランティアで、1円のギャラも支払われませんでしたが、日当1日11000円✕6日、および宿泊費25000円✕5泊分が各人に支給されました。実際に泊まった宿はもっと安いところで、(後で知ったのですが)差額は返さなくてよかったのです。
日当は、もちろん食事や交通費として支給されたのですが、途中から貨幣価値に気付いたバンドメンバーたちが、可能な限り自炊をして節約に努めたことは想像に難くないでしょう?といっても、最初の宿に付いていたキッチンはIH式でしたから、普段は炭か、せいぜいガスボンベで調理している彼らにはなかなか火加減が難しく、結局調理は私か、日本人ダンサーの吉田さんが主にやりました。
それやこれやで一生懸命節約したお金を関西空港でブルキナファソへ送金し、ワガドゥグへ戻った時には現地通貨で引き出せるようにしておきました。その金額は5人分合わせて約150万CFA。つまりワガドゥグでは150万円ほどの価値がある金額です。それが証拠に、銀行ATMでの1日の引出し限度額は100万CFAですので、2日に分けて引き出さねばなりませんでした。
注目していただきたいのはこの後の経緯です。つまり、一人当たり平均30万の現金を手にしたというのに、10日経った頃には、それらは跡形もなく消えたと言うのです、それも一人を除いて全員が!皆さんは、彼らが山のような借金を清算したとか、喜びのあまり、バイクか何かの大きな買い物をしたとか、そんな想像をなさるかもしれません。でも、違うのです。
日本のような先進国へ行ったからには、相当なお金を持ち帰ったに違いないという勝手な想像で、毎日毎晩、近隣やワガドゥグのあちらこちらからは無論のこと、遠い村からまでも噂を聞きつけて多くの人々がお金を無心してくる、あるいは奢ってくれと迫る…などなどの連続で、お金は瞬く間に無くなったというのです。実はこれは十分に予測された事態なので、ヤクバは到着の翌朝早く、壊れていたバイクのエンジンを買い変え、マブドゥはこの先2ヶ月分の米袋を買いに行ったりと、それぞれ必要最低限の自衛はしていました。それにしても、無心されたらお金を渡さなければならないという感覚が、ちょっと理解し難いかもしれませんが、それがこの社会の実態なのです。私もブルキナファソへ来て長いので、分かっていたつもりでしたが、それにしても30万CFAが瞬く間に消えてしまうとはあらためて呆れました。ところがバンドメンバーがいうには、この件で私は「女を上げた」(通常は男、ですが)というのです。人々はこの経緯で私のことを今までにも増して尊敬しているのだとか…。つまり自分たちのところにお金が流れてきた、その川上にいる存在として私を有難がるという意味なのでしょう。
そういえば、私が1年4ヶ月もワガドゥグへ帰ってこなかった間、心無い人々は「彼女はもう二度と帰ってこないつもりなんだ。マブドゥたちはナサラ(白人)と一緒にいて良い気になっていたけど、結局は相手にしてみれば大した金額でもないのに、自分たちにとっては大金を支払ってもらっていると喜んで一緒に仕事していたけど、見捨てられたのさ」と噂していたそうです。まぁ、噂好きな人々が勝手なことをいうのは、どこの国にもあることですから、目くじらを立てても始まりません。
ちなみに、もう一つ驚いたことは、1年4ヶ月ぶりに帰宅してみると、居候が4人も増えていたことでした。正確にはマブドゥの家に3人、隣家のヤクバの家に1人ですが、隣家といっても境界はなく、トイレ兼風呂場は我が家(マブドゥの家)のを使っているのですから、感覚的には一つの家です。居候が1CFAもお金を入れないで居続けるのに苦情も言えない、あるいは言う気もない、というのがまた理解し難いところですが、まぁ、それでも持ちこたえていける自分の状態を天に感謝する、という気持ちといいますか、そのような意識で過ごしているとしか思えません。
確かにそういう考え方は美しいし、私もそう考えることにしています。でも、やはり時々不条理を感じることがあります。今まで、一番こたえたのは、私の留守中にマブドゥがバイクを人に貸して、その人が大事故を起こし(衝突事故で、相手は即死したそうです)、バイクが大破損した上、2ヶ月も警察に押収されたままになったときでした。私はベルリンでその報せを受け取りましたが、マブドゥの説明は私にとっては支離滅裂で「もしそのバイクに乗っていたのが自分だったと考えると非常に怖ろしく、身代りに事故に遭った従兄がどうか死なないように祈るばかりだ」というような内容でした。その人は私にとってはほとんど見知らぬ人でしたが、マブドゥにとっては従兄なので動揺していたのはわかりますが、バイクは彼と私が共有しているもので、もちろん買ったのは私でした。オペラプロジェクトのために街中のあちこちへ行く必要がありましたから、その度に他人のバイクを借りるわけには行かないし、その後マブドゥが兄から譲られたバイクに乗っていた時期もありましたが、ボロのバイクだとしょっちゅう不具合が起きて、修理しているうちに約束の時間に大幅に遅刻してしまうこともあったので、一念発起してヤマハのオリジナルバイクを買ったのです。これには、家を建てた時よりも高いお金がかかりました。ヤマハのバイクをこちらで買うと、フランスの課す関税のせいで日本で買うよりも高いのです。
だんだんにわかったことですが、その事故は早朝に起こり、双方がスピード違反を犯していたそうです。幸いマブドゥの従兄はわりと早く回復し、亡くなった相手の遺族も訴えないという決断をしたので、マブドゥはホッとしたようでした。
私が納得できなかったのは、マブドゥからも事故った本人からもきちんとした謝罪がなかったこと、そして当然のように修理費は私がもつと思っているかのような態度でした。「次からは保証のあるバイクを買ったほうがいい」と、ベルリンから戻った私にマブドゥが告げた時、内心怒りが込み上げました。当時の私にとっては、バイク代は本当に大金でしたし、次のバイクなんて買う余裕はなかったのです。自分よりは遥かに金持ちだと私のことを考えているのでしょうが、勝手にバイクを貸して、それが壊れたのになぜ私が次のバイクを買わなくてはならないのでしょうか?
内心は彼もビビっていたのでしょうが、ビビった時ほど強気に出るという変な癖が当時の彼にはありました。でも私もこんな理不尽な話があるものかと憮然としていましたので、案の定大喧嘩になりました。当時、ワガドゥグを訪ねてきていたマブドゥの一番親しい従弟で警察官のバキスが、片言の英語で一生懸命取りなそうとしてくれましたが、理解し合うのは難かしく、私はバイクが事故を起こしたのではなく、早朝からスピード違反で走らせたドライバーが事故を起こしたのだから、断じて身代わりの犠牲などではないと一歩も譲りませんでした。バキスだって何もそんなマブドゥの考え方を支持していたわけではなかったと思います。
結局バキスが、当時臨月だった彼の奥さんのバイクをワガドゥグにおいて行くから、警察からバイクが戻ってきて修理が完了するまで使うようにと申し出てくれました。このありがたい申し出により、次のバイクを買う云々の話はしなくて済むようになりましたが、結局バイクはどんなに八方手を尽くして頼んでもなかなか返してもらえず、2か月後にようやく返してもらい、修理に出しました。
この時、私が136,000CFA、マブドゥが66,500CFA、事故った本人は10,000CFAを支払い、バイクは何とか再び走行できる状態に戻すことができました。日本円にして5万円強ですが、壊れたときの無惨な写真を見た日本の知人が「買い替えた方が良い」と即座に言ったことを思えば、案外安価で修理出来たと考えるべきかもしれません。
しかしご想像に難くないでしょうけれども、その後事故った本人は1CFAたりとも(5CFAたりとも、というべきですが)補償しに来ません。私は数回、マブドゥを通じて毎月1,000CFAずつでも返すように言いました。自分で直接言いたいのは山々でしたが、そこはグッとこらえて、西アフリカ式に仲介人(マブドゥ)を立てたのです。しかしながら、あれこれの言い訳で、そのうち払いますという返事が間接的に伝えられるだけで、3年近くが経過していますが、何も起こりません。
遂に私は、万博公演から帰って来て、最初のバンドのミーティングでこのことを問題提起したのです。
それは、マブドゥが日本で行ったワークショップの謝金を受け取ったら新しいバイクを買い、今のバイクは妻に譲ると私に話したからです。これは単にアイデアとして話しただけですが、私の心にくすぶっていた割り切れぬ思いが、再び頭をもたげました。1週間ほど経ってから、私は「賛成しかねる」とはっきりマブドゥに伝えました。まだ損害賠償を受けていないバイクを、たとえ妻であっても譲るのは賛成できない。もしも新しいバイクを買って、今のバイクが不要だというのなら、それを売って修理費を穴埋めすべきだ、と。
これが理に適っているかどうかは、自分でも半信半疑でした。中古バイクはどんなに状態が良くても、250,000CFAで売れればラッキーですから、ちょうど初期の修理費に相当するくらいにしかなりません。それよりも、我が家に2台のバイクがある方が何かと便利だとマブドゥは考えたのでしょう。
しかし、1台だろうが、2台だろうが、ここの風習では誰かが貸してくれと頼んでくれば貸さざるを得なくて、借りた挙句に使ったガソリンすら補填しない人も大勢いますし、挙句に自分で買わない(買えない)人々に限って使い方は荒く、しばしば故障して戻ってきます。その修理代も全てこっち持ちですから、たまったものではありません。いかに「郷に入れば郷に従え」と言われても、限界があります。今回も日本滞在を終えて帰ってみると、誰が使ったのか、バイクのブレーキがおかしくなっていました!
こんな状況で、2台のバイクの面倒を見るなんて私は真っ平なのです。
マブドゥとはこの5年余りの間、何度か激しくぶつかりましたが、「雨降って地固まる」というように、より深い信頼と相互理解を築いて来たと信じています。しかしこの一件は未だに未解決なのです。そこで遂にバンド全体の意見を求めました。
驚いたことに、これまで誰も私に告げていませんでしたが、事故った人は、その後第二の事故を起こしていたのです。
それに加えて、(これはバンドのミーティングに先駆けてマブドゥ自らが私に話したのですが)、マブドゥもかつて(私に出逢う前に)大事故を起こして2週間ほど入院しましたが、その時真っ二つに壊れて修理不能になった(人から借りた)バイクに関して、1CFAも補償しておらず、何故かと問うと「持ち主が全く要求してこないから」と答えるのです。
彼にとっては、自分もかつて他人を同じ目に遭わせたから、自分もそういう目に遭っても仕方がないということなのでしょうか?
私は、バンドの皆が日本まで行って、単にボランティアとして万博公演を行っただけで、何のお金も稼ぐことが出来ずにワガドゥグへ戻るなどということにならないように、日本で1年以上も全力を尽くして画策しました。労働ビザが発給されるケースではなかったのですから、合法的に彼らに何らかの収入を得させるためには、どうしたら良いのか、それを考え、実現するのは本当に難しい課題でした。マブドゥは他のメンバーの数倍働いて、私の片腕としてプロジェクトを支えて来たのですから、彼には特に報いたいと思ってきました。
彼には9月に、相当の支払いをする準備をしていますが、彼はそのお金を手にしても、以前壊した他人のバイクの補償をするつもりはなく、自分に新しいバイクを買って、また無責任な他人に貸し出して、もしかしたらまた誰かがそれを傷つけて、心ならずもその「つけ」を私に回すことになるのでしょうか?交通事故が異常なまでに多発するワガドゥグで、このような心配をするのは当然のことです。
このバイクをめぐる一件は、私がブルキナファソを身をもって理解するための最後のハードル、あるいは通過儀礼なのでしょうか?
お金とは、結局何なのか?水のように常に循環して全ての人を潤すのがお金のあるべき姿なのかもしれません。貸し借りを厳しく追及すべきではなく、無いときは悪びれず貰って、入ったときは紀伊国屋文左衛門よろしく、ぱーっとばら撒くのが人徳なのでしょうか…。
マブドゥが故郷へ帰って留守の間、ヤクバやラミッサ、他の友人たちと中国茶のお茶会をしながら、私はぼんやり考え続けていました。
その夜、故郷のヌナから遊びに来ているマブドゥの姪っ子の一歳半の息子の、すさまじい叫び声で目が覚めました。ひきつけというのでしょうか?呼吸困難のようになってしまっていて大騒ぎになり、その子どもは病院へ連れていかれました。翌朝早く、バンドのバラフォニストのブレイマが「マブドゥから電話があり、10,000CFAを病院へ持っていかねばならないと言っている」と私に告げに来ました。それは10,000CFAを私に払ってくれと頼んでいるのか、それとも貸してくれということなのか、それとも彼はそのお金を既に送金していて、それを引き出して払いに行けということなのか、ブレイマは一向にちゃんと説明しません。ただただ「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と大声で繰り返すばかりです。
後で、ヌナから急遽引き返してきたマブドゥに聞くと、彼はブレイマにお金を出してくれるように頼んだのであって、私に出させるつもりはなかったから、私に電話しなかったというのです。ブレイマ唯一人が日本から持ち帰ったお金を死守していることを、皆知っていました。けれどもブレイマはお金を出したくないので、私に「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と伝えに来たのです。そう伝えれば、私が何とかすると思ったのでしょう。ブレイマは病院へ見舞いには行きたいけれどガソリン代がないから支払ってくれとヤクバに頼んだらしく、ヤクバは呆れてそれを断りました。
朝の時点では、ブレイマと話してもらちが明かないし、マブドゥの到着は午後3時ころだと聞きましたので、とりあえず20,000CFAを持ってヤクバと病院へ向かいました。こちらの病院の常ですが、次から次へと処方箋を出して、病人の家族を薬局へ行かせてそれらの薬を購入させ、それを使って治療するのです。しかも看護師という存在がいませんので、病人の家族が交替で付き添い、夜も寝泊まりしなければなりません。庶民は保険などにもほとんど加入していませんから、病院にかかるとその出費は途方もない金額になります。
昨夜は、戻ってきたばかりのマブドゥがさっそく夜の付き添いをしましたが、子どもの母親のみが病室での付き添いを許され、彼は外のテラスで蚊の猛攻撃に悩まされながら眠ったそうです。今、子どもはすっかり元気を取り戻しているそうですが、かと言ってなかなか退院はさせてもらえません。すでに20,000CFAはほぼ使い果たされています。マブドゥは数日前にヌナですっからかんになって、早くも私に借金を申し込んでいたくらいですから、病院への行き帰りのガソリン代すら、その借金から工面しているのです。
これが日本から戻って、たった二週間後の実態なのです。
「お金を持っていない」ということはある意味強みですらあり、持っていなくても結婚はする、子どもは産む、病院にもかかる、必要と考えれば何でもするのであり、その代金は誰かが支払ってくれる...支払うだけの力がある人が支払うのだから、別にありがとうすら言わないことも珍しくはなく、時に「神があなたに長寿を授けますように」というような常套句を言われるのみで終わりです。
病院からいったん家へ戻る途中で、マブドゥがバイクの後ろの私に「またあなたに借金を作っちゃったね」と溜息交じりに声をかけた横を、かつて私たちのバイクで事故を起こしたマブドゥの従兄が(また誰かに借りたバイクの後ろに)息子を乗せて「やあ!元気?」と満面の笑みで笑いかけながら、追い越していきました。
2023年の11月8日の公演を終えて(1)
この数ヵ月、オペラの完成版公演の準備の間に、あまりにもいろいろな困難が立て続けに起こり、毎日信じられないような思いで、なぜこうも苦難が連続するのかと、考えたところで答えなど見つからないし、一つ一つ問題に対処するのが精一杯でした。結局私は、フランス語の会話の通訳からバイクの運転まで、多くをマブドゥに頼らざるを得ないのです。様々の用事で各省庁を訪ねたり、ポスターや招待状を刷ったり、テーラーに行ってコスチュームを縫わせたり、足りない機材を知り合いのスタジオに借りに行くのすら、他のチームメンバーにはほとんど何ひとつ任せられないという状況が、マブドゥと私の二人を精根尽き果てるまでヘトヘトにさせた一因です。ですが、字がちゃんと読めない・書けない、公用語で込み入った会話ができない、そもそも大臣のような人々に会うこと自体に怯んでしまう、というような仲間に何かを任せることはとても難しいのです。ブルキナファソは多言語社会で、母語が異なる相手と話す機会が多いこともありますが、基本的にほとんど誰しも、相手の話を半分しか聞いていなくて、早とちりがとても多く(これは喫茶店での注文などでも同じですが、間違いは頻繁に起こります)、コスチュームにしても、様々の不具合が生じて何度、やり直させたかわかりません。時間や期日も全然尊重されませんから、心配や気苦労は尽きることがありません。
読み書きが不自由な場合は、やるべきことをリストにして一つ一つ確実に済ませていく - というような、先進国社会ではごく当たり前の方法もとれませんので、複雑で長い行程を全部頭に入れてもらうのは至難の技です。全体像を見渡す力、それはオペラのストーリーや構成の全体像でもあり、またプロジェクトの全体像でもありますが、これを理解しようと努め、また実際に理解できる人がいないのです。
それは意思の問題であると同時に、やはり経験と能力の問題でもあります。人生で、与えられた仕事をこなす、ということしかしてこなかった人々は、全体像を見ようとすることもないし、それを把握する能力が育っていないのでしょう。
立て続けに起こる難題- 例えばバラフォニストのブレイマがデング出血熱にかかってしまい重症に陥ったこと(彼以外にも多くの人がこの期間、デング熱で倒れました)、教育省からの重大な手紙が、どこでどう間違ったのか、二週間以上も手元に届かなかったために、子どものための公演に児童たちを招待するのがとても遅くなったこと、ドイツから来てくれる音響技術者たちのために借りようとしていた家が、彼らの到着二日前に漏電していることがわかり、急遽他を探さなくてはならなくなったこと、4つ借りることになっていたマイクロポートが直前になって3つしか借りられなくなったこと(12台あったはすが、後はすべて壊れていることが判明)、本番前日に合唱団員のお母さんが亡くなり、急遽お葬式があり(こちらでは人が亡くなると即日お葬式をするのが常です)、合唱団全体がほんの少しの時間しかゲネプロに来られなかったこと - なとなど様々ですが、それらの事態への反応や考え方が日本の常識とはまるで違うところが、私にとってはさらに難しいのです。
いかに手作りオペラとはいっても、裏方をやってくれる人々の存在なしに、すべてをマブドゥと私で仕切るのは、かなり無理があったということです。彼は主役を歌っているのだし、私たちは作曲もし、私は演出もしているのですから。この事がわかっていなかったというわけではないのですが、オペラとはどんなものなのか?という青写真を知る人がこの国のどこにもいないので、チームのなかにも外にも、任せられる人材が見つからなかったのです。
ただ、あまりにもいろいろな苦難が立て続けに起こると、誰かに呪われていると考えるのが、こちらの人々の常です。そうなるとお祓いや生け贄を捧げての祈祷などが、忙しい最中に必須事項となりますから、マブドゥはいちいちそれを私には話しませんが、尚更忙しくなります。そして、曲がりなりにもすべての困難を乗り切って、公演が成就したとなると、やはりそのお陰だという話になります。念願叶った折りには、あらかじめ約束してあった捧げ物をしなければならないそうですから、それはまたそれで大変です。
出る杭は打たれる、というのはなにも日本に限ったことではないらしく、オペラプロジェクトが少しずつでも発展しているせいで、いろいろな方面から嫉妬され、身に覚えのない恨みを買っていることは大いにあるらしく、マブドゥが時々おうかがいをたてに行くフェティッシュからも、大勢の敵がいるだの、仲間から裏切りが出るだのと忠告を受けているそうですから、それらの人々がやはりフェティッシュの力を借りてかけている呪いに打ち克つために、こちらもフェティッシュに頼らざるを得ないというわけです。
もともと、物事をきちんと考え詰めていき、前もって十分な用意をするという習慣が極めて根付いていないこの文化圏で、更に、いかなる場合も(冠婚)葬祭があらゆることに優先されてしまうというリスクを抱えつつ公演を成就させるには、確かに神仏や霊の力を借りる必要もありそうです。
○○人は、などといって、出自や人種で安易に人々を評価するような言い方は極力避けたいのですが、正直なところ、やはり、公演の4~5日前にベルリンから駆けつけてくれた友人たち(ドイツ人と日本人)、現地に5年住んでいる日本のダンサー・吉田さんらには安心してそれぞれの持ち場を任せられました。それは彼らが本番から逆算して、どの時点でどれだけのことが必要かという計算をすることに慣れていて、彼らは彼らでそれぞれに予想外の困難に見舞われていはするのだけれども、それらをクリアしつつ一定の結果を出す能力が備わっているからです。(例えば、ベルリンから来てくれた二人のトーンマイスターは、ワガドゥグで一番設備の整っているはずの今回の会場で、故障しているケーブルの修理に3日の間、毎日数時間ずつ費やしました。それでも尚、公演の途中でケーブルの不具合から効かなくなってしまったマイクもあったのです。)実際に彼らは皆それぞれに、こちらの期待以上の仕事をしてくれて、そのお陰で実際面のみならず、精神面でもとても助けられたという気がします。良い意味での驚きは、プロジェクト内部に素晴らしい高揚感をもたらしてくれるからです。
結果に対する強い責任感とビジョンを持って行動するのは、社会のなかで培われていく能力です。ところが、そのような考え方がほとんど存在せず、責任という感覚も異なる地平に存在している文化圏においては、仕事をする上で相手の何を信用して良いのやらわからなくなってしまうことがままあります。
文化の多様性を認め、互いを尊重しながら協働していくことの難しさは、まさにここにあると思います。
しかしながら、崖っぷちギリギリまで追い詰められた人間の底力、危ない橋を渡らざるを得ない一か八かの悲惨な覚悟というものも、思いがけない成果を発揮させることもあります。実際に今回何が起こったかということは、いわゆる裏話の類いですので割愛しますが、そんないろいろな力が混ざりあって出来上がったのが、よくも悪くも公演という結果なのです。
ここまでの文章で、私は彼らの文化圏の良さにについてほとんど言及していないことに気付かれているかもしれません。全くその通りなのです。それはきっと、この怒濤のような苦難の日々に、私はいつしかそれを見失ってしまっているからだと思われます。マブドゥはマブドゥでまた、彼らにとって特に大切ではない細部が、私にとって大変重要であることがなかなか理解しがたいということを漏らしていました。彼と私は、互いの文化圏のエッジに立っていて、例えば彼はこちらでは大変珍しいことに時間厳守であるし、私は私でかなりブルキナファソ的な振る舞いに慣れてきてはいるのだけれど、それでもやはり、互いに川の両岸から手を差し伸べ合って、プロジェクトが崩壊せずに発展を遂げるよう協力しているような感覚があります。数多いといわれる"敵"の狙いもまさにそこだそうで、マブドゥと私が決裂するようにと、様々に呪いをかけていると言います。実際にそういう危機は何度も訪れたのであり、それを乗り切ってここまでたどり着いたのは、互いの我慢と共に見た夢に賭ける熱意だけではなく、奥底にある人間同士としての信頼だったと今になってわかります。彼はもともと批判を受けたり、激しい口論などによる衝撃に弱く、これまではそういうことが起こる度に演奏には悪い影響しか出ませんでした。しかし、今回はそれを克服して、直前までの様々の葛藤、それに加えて出番の直前まで席の暖まる暇もないくらい雑事に駆け回っていたにも関わらず、見事に、ほぼミスなく、主演の大役を果たしました。彼が自分自身を乗り越えたこの公演の成果は、何よりも私を感動させました。
暫定軍事政権のもと、現在の政権に対する二度にわたるクーデター未遂があり、夜8時以降は交通規制と厳重な警戒態勢が敷かれ、今回の会場CENASAの回りも夜は人通りが極めて少なくなります。外交団はその地域への夜間立ち入りがほぼ禁止されているそうです。午後4時からの子どものための公演が満席だったのに引き換え、夜の公演は人数がまばらだったことの一因はそれだと思います。公演から5日後には、地方の村でテロのために百人近い人々が虐殺されるという痛ましい事件が発生しました。また、原因はわかりませんが、今年はデング熱が大変な勢いで蔓延しており、病院はどこも一杯の状況です。そんな中、二つの公演を無事に終えられたことはすでにそれ自体、幸運なのだと思います。
最後になりましたが、オペラの主役を歌いながら4つの楽器を弾きこなし、私のアシスタントとしてあらゆる面で大活躍し、このプロジェクトを支えてきたマブドゥとはいったいどんな人物なのか、彼のプロフイールを紹介したいと思います。彼は来年40歳を迎える、なかなか優れた作曲家・歌手・楽器奏者ですが、他の人々がフランスやベルギー、あるいは中国などに演奏旅行に行く機会を得ていくのを横目にしながら、不思議といまだにそのチャンスに恵まれたことがありません。外国といったら隣国のガーナとベナンにしか行ったことがなく、飛行機に乗ることが長年の夢で、今回ドイツから来た友人たちが残していった機内用スリッパと歯ブラシ・耳栓のセットをもらって子どものように喜ぶマブドゥ。そんな無邪気で素朴な面を残しながらも、彼は一族の実質的な長の役割を果たしていて、親類縁者のあらゆる揉め事・厄介事は彼のところへ持ち込まれます。それを解決したり助けたりすることは、真から性に合っているようでもありますが、やはり疲れはててしまうこともありますし、慢性的な不眠症に悩まされてもいます。リセ(高等学校)を中退したそうですが、バンドのなかではもっとも高学歴で、彼がリセで習った英語をメインに、私の下手なモレ語とそれより更に下手なフランス語を混ぜてやり取りし(マブドゥはこれらの言語はかなり得意だし、それに加えて母語であるジュラ語とボアモ語を話します)、これで4年間のプロジェクトを支えてきたのですから、誤解がちょくちょくあったのも驚くには値しないわけです。
この文章を書き終えようとして、マブドゥこそが孤独なのかもしれないと、あらためて思い当たります。ドイツから駆けつけてくれた友人たちを私が安心して頼れるのは、文化的背景だけではなく、彼らが友人であるからという理由が大きいのかもしれません。だとしたら、いつでも他人を助けるために奔走しているマブドゥに、彼にとっても晴れの舞台であるこの公演に際して、オーバーワークの彼に(普段彼から助けられている人々から)助けの手が差し伸べられないのは、何故なんでしょう?それもある種の嫉妬なのか、気後れなのか、単に彼が人に頼ることが下手なのか、私にはよくわかりません。
私が昨夜、ブルキナファソを離れて南アフリカへの1ヶ月の旅に発つのを、空港までバイクで送ってくれながら、軽やかにオペラの曲を口ずさんでいたマブドゥ。オペラの曲はマブドゥと私で半分ずつ作曲していますが、それは私の曲でした。
マブドゥ、遠からずして、あなたが飛行機に乗る番が来ると思うよ。それが現実的な夢になったとあなた自身思えるからからこそ、そんなに軽やかに口ずさんでいるんだよね?
2023年の11月8日の公演を終えて(2)
フランシス・ケレとの出会いのきっかけは、ベルリン在住の女性建築家フロレンティン・サックに誘われてあるエキシビションのオープニングパーティーに行ったことでした。彼女の交遊関係にはやはり建築家が多いのですが、彼女の話に出てくる人物のなかに、どうしても会ってみたい人がいました。その人は、とある映画(Der vermessene Mensch、 英語タイトル The Measures of Men)の撮影のために5ヶ月ナミビアに行っていました。ドイツがナミビアを植民地支配していた時代に行ったジェノサイドのシーンを撮影するために、当時さながらの村を建造して、破壊するという話でした。撮影とはいえ、現地の人々の憎しみが新たに甦って大変な目に遭ったりしないのだろうか?なかなか大変な仕事だろうと想像していました。
2022年9月にベルリンからブルキナファソへ戻る直前に、ふとその人-ゼバスティアン・スクプに会うチャンスが訪れました。フロレンティンと韓国料理屋で夕食を摂っているときに電話があり、これから二人とも自分のアパートに来ないかと誘われたのです。その夜、ナミビアでの仕事はヒンバ族の魅力的な女性たちがこぞって手伝ってくれたという話を聞きながら、ゼバスティアンの日本人の友人ヒロキさんが次々と手際よく出してくれる日本風の酒の肴に舌鼓を打つ、贅沢な時間を過ごしました。
ゼバスティアンがその夜の記念にくれた大判の写真に映るヒンバ族の女性たちの美しさは際立っていて、彼女らは一生水浴をせず、火を炊いて煙で身体を浄めるという話に、これぞ文化の多様性だと心打たれました。
ブルキナファソへ戻った私に、しばらくしてゼバスティアンからメールが届き、その年の暮れに日本へ旅行する際に一級の茶室を見たいんだけれど、どうしたら見られるかと相談がありました(彼は茶道を嗜むのです)。そこで、その時期に特別公開されている茶室の情報を提供しました。
2度目に彼に会ったのは2023年1月の半ば、ベルリンのシュタイナーハウスで私の室内オペラ「A Vermilion Calm」を上演したときでした。私はブルキナファソから三週間の予定で戻ってきていましたが、敗血症で入院してしまい、病院の外出許可を取って見に行きました。ゼバスティアンも日本で骨折してしまい、旅行を早めに切り上げて帰って来たそうで、車椅子生活だったにも関わらず、公演を観に来てくれて、感激でした。
5月に再び二週間ほどベルリンを訪れたとき、ある夕方数人のゲストと共にディナーに招いてくれました。その時に私はブルキナファソでのオペラ公演の話をしたのだと思いますが、9月に入って、彼から思いがけないメールを受けとりました。なんと、ヒロキさんと共に私のオペラ公演を観るために、わざわざワガドゥグへ来るというのです!
ブルキナファソはテロが多発しており、渡航は推奨されておらず、ベルリンからの距離も決して近いとはいえません。しかも私のオペラは演出も舞台美術もほとんど私が手掛けている、極めて低予算の、手作りプロダクションですので、ケルン大学で舞台美術を教えているゼバスティアンのような人がわざわざ飛行機代を払ってまで観に来ると聞いて、嬉しい反面、正直にいうと、かなりたじろぎました。
彼らのビザ取得のための招聘状や宿泊場所の確保などを手伝いながら、彼らは単にオペラを見に来るのではなく、公演の最終準備を手伝ってくれようとしているのだと理解しました。
ところが、いよいよ彼らがベルリンを出発する一週間前になって、エアフランスが欠航を決めたという連絡が転送されてきました。これには全く驚きました。エアフランスは8月の前半からワガドゥグへの運行を中止しており(それはニジェールで7月26日に起こったクーデターの影響で、ブルキナファソの現政権がはっきりと、クーデターを起こした側を支持すると表明し、マクロン政権にNo!を突きつけたからです)、再開の前兆は何もなかったのにも関わらず、この区間の航空券を売り続けていたとは!ゼバスティアンたちはきっと旅行を取り止めるだろうと想像しましたが、さにあらず。即座にトルコ航空のフライトを予約して、公演の4日前にワガドゥグに到着しました。
それより一日早く到着していた、私がベルリンから招いたトーンマイスター(音響技師と録音プロデューサーを兼ねた職責です)の二人は、泊まる予定だった家が直前に漏電火事になりかけて修理も怪しかったので、急遽、ゼバスティアンたちの借りた家に同居させてもらうことになりました。同じベルリンから来たとはいえ、面識のなかった二人組同士がワガドゥグで突如一週間のシェアハウス状態になったわけです。
公演2日前から会場での総合リハーサルが始まりました。音響機器の配置、背景のビデオ映像をスクリーンに映し出し照明を合わせていく作業などのすべてが完了してようやくオペラ全体を通して演奏してみることができるわけですが、たった二日間の総合リハーサルですから、できる限り有効に時間を使い、不安材料をひとつでも多く解消していきたいのが私の心情です。初日の総合リハーサルは様々な準備とチェックのため、演奏家たちにとっては待ち時間が多いものです。とはいえ、その間に自分自身の楽器、衣装のチェック、始めての本舞台での動きの感覚のチェック、歌詞や台詞の練習など、いくらでもやることはあるはずなのですが、とりとめのない冗談話や、オペラとは無関係の音楽を遊び半分に演奏したり、延々とそうやって時間を潰すバンドメンバーの姿に私はイライラしましたが、自分にはありとあらゆる仕事が引き続いてあるので、それを注意しに行く余裕すらありませんでした。いざ、通しが始まってみると、必要な小道具が手元に揃っていなかったり、衣装の替えにてこずったり、小道具の置場所を間違えたり、ミスの続出で私は爆発寸前になりました。「明日やれることを今日するな」という悪い冗談のような言い草を地で行くようなブルキナファソ人スタッフの対応を制するには、こちらも強い態度が必要です。21時過ぎにやむなく初日のリハーサルを終了しましたが、バンドの一人が「明日は何時集合?」とあっけらかんと聞いてきた瞬間に堪忍袋の緒が切れました。と同時に、ゼバスティアンたちはおろか、トーンマイスターたちと顔を合わせる勇気もないくらい、私は打ちのめされていました。4年をかけて取り組んできたプロジェクトの出来がこんなにもお粗末なもので、それをわざわざベルリンから手伝いに来てくれた人々の目に晒したことが、なんとも申し訳なく、恥ずかしく、悔しく、やるせない思いで押し潰されんばかりだったのです。
しかしこの時、マブドゥの関心は全く別のところにありました。彼はゼバスティアンたちが宿に戻るための車が検問になるべくかからない道を指示しようと躍起になっていて、それにも関わらす、すでに出発していた車の行方を見失ってしまっていたのです。私はバンドを臨時召集して、重大な話があるから、とあるレストランで私とマブドゥを待つようにと言い、そのミーティングで何をどう話すべきかだけを考えていました。
この夜の苦しさは忘れることができません。突然降って湧いた苦しみではなく、何ヵ月もの間懸念していたことが、ついに恐ろしい現実となって目の前に現れた感じでした。「このままでは公演を中止、または延期するしかない」と私は彼らに告げました。中止や延期のあらゆるリスクを考えても、無様な公演を敢行するよりはましである、と。マブドゥと私の、数ヵ月にわたる雑用にまみれた日々。それをほとんど手伝うことも、理解することすらしなかった他のバンドメンバーに対して、押さえていた怒りが込み上げました。マブドゥがなんでも自分達で背負い込もうとする性格だというためもあったのでしょうが、それにしても、今日の半日の態度だけ考えてもあまりにも受け身で、自覚に欠けた、プロフェッショナル意識の欠片もない態度だと、私はモレ語、フランス語、英語のまぜこぜで彼らの態度を非難しましたが、内容がどれ程正確に伝わったかは定かではありません。ただ、私が限りなく落胆していること、本当に公演を延期しかねないということは全員がはっきりと感じたはずです。明朝9時にホールに集合して、問題箇所を逐一チェックしていくというブレイマの提案で解散しましたが、心はとても重く、もし公演を延期したり中止したりしたら、どうなるだろうかという想像がぼんやりと頭をよぎっていました。
翌日9時前にバンドメンバー全員がホールに来ており、緊張感溢れるダメ出しが行われました。夕方からゲネプロに加わった合唱団は、理解不足、練習不足で予想を上回る混乱を引き起こしましたが、バンドはそれをしっかりフォローできる程度の仕上がりを見せたので、まだしも救われました。
ゼバスティアンとヒロキさんはゲネプロから本番に至る様子を撮影し、各出演者にインタビューを行い、彼らの目で見たこれらの状況を、もしかしたらドキュメンタリーに仕上げてくれるかもしれません。
本番当日の子どものための公演と一般公演の間の3時間に、もくもくとステージを掃除するゼバスティアンの姿がありました。それは彼が日本の精神として学び、実践した行動なのです。
一般公演終了直後、ゼバスティアンは出演者全員に小綺麗に包んだ小さな贈り物を手渡しました。中身はそれぞれに異なっていましたが、全て日本で買ってきた美しい品物で、小さな扇子、お茶、キーホールダーなどでした。
ブルキナファソ/日本のプロジェクトで思いがけなくもドイツ人が見せてくれた「和の心・もてなし」は、3日間のドタバタ劇の興奮を、清涼な息吹で鎮めてくれました。
ありがとう、ゼバスティアンとヒロキさん!
オペラあらすじ (2022年公演から)
オペラは、Lisoが祖国から逃げてブルキナファソに到着したシーンから始まります。彼は子ども時代に、アンゴラから逃れて来た難民のボスコおじさんという人を知っていましたが、いつの日か自らが難民として生きることになろうとは想像していませんでした。
第一曲 花一輪と 心と 握り拳...
疲れ果てて眠りに落ちた時に見る夢は、幼い頃、父が死んだ時のこと。遠くで暮らす父が亡くなったという知らせが届くや否や、父方の叔父や叔母たちは、リソと母、兄を家から追い出したのです。その辛い記憶はリソのトラウマとなりました。
第二曲 かなた、あるいはこの地...
異郷での厳しい生活の中、過ぎ行く女たちに母の面影を偲び、海のない国に居ながら海鳴りが耳底に響きます。
第三曲 母は白人の言葉が決して好きではなかった
物売りをして女手一つでリソたちを育て上げた母。「白いマスク、黒い肌」と呼ばれる存在たちについて彼女は語ります。白人の建てた学校で、白人の教育を受けた子どもたちのことです。彼らに対する賛否両論-先祖に対する裏切り者たちだという考えと、国の将来を背負う期待の星たちだという考え方。その答えは未だ定かでないと言います。 彼女自身は、リソの祖母、つまり彼女の母親が、子どもたちを白人の学校へやりたくなくて隠したので、一日たりとも学校へ通ったことはありませんでした。でも彼女はリソには学校へ行くように強制しました。
市民戦争下の人々の様子、堕胎施術をめぐるさまざまのゴシップなどがコメディアンによって皮肉たっぷりに語られます。この部分は、アフリカの呪物崇拝に関連したトピックで、富や成功を求めて黒魔術の力を借りようとする人々の姿を描写しています。
第四曲 ビーモゴ ヤ
それに続く歌では、人々の間の不信、親戚や兄弟ですら時には信じられないことを嘆き、そんなことでは自分たちの社会を強固に築くことは出来ないと歌います。
第五曲 海...
第六曲 末息子は心ならずも...
難民生活で、辛いことの多いの中、いつも思うのは故郷に残して来た母のこと。故郷に帰れば即座に捕らえられてしまう現状では、いつになったら再会出来るのか、まるでわかりません。彼女への思いを詩にして歌います。指名手配になってしまった時、あるよ暗闇に紛れて母に会いに行き、別れを告げた夜、、、その後バスで故郷を逃れる際に、最初の詩が書かれました。
第七曲 世の中をごらんよ!
突如電話が鳴り響き、悪い知らせを受け取ります。この場面は、リソではなく、主演歌手Maboudou の実生活の物語。2021年11月のInataのテロで襲われた憲兵隊の一員だった従兄弟が行方不明になったきりです。未だ生死もわからず、わずかな望みも日が経つとともに薄れて行きます。この世は人殺しが牛耳る世界なのか!
第八曲 椰子油の香りの小さな花よ...
暗転ののちは、幼くしてマラリアで逝った妹の記憶が、優しく降る雨の、甘い香りの思い出とともに歌われます。彼女を失った衝撃は30年後の今も、まるで昨日のことのようです。間奏部分では、それにしても彼女の父親は一体誰だったのだろう?という疑問が語られます。教会の神父が最もあり得そうな候補だと、、、。
第九曲 平和
平和を願う歌は、全アフリカ共通の叫びです。
第十曲 明日、地球...
そして、耳底に響く母の言葉- 不公平な状況において中立の立場をとることは、抑圧者の側に立つことに他ならない。息子よ!信じる道を歩き続けなさい-。それに励まされてリソは、明日を信じて歩み続けます。
第十一曲 証明書
終曲は皆さんをステージにお誘いします!一緒に踊ってください。
クラウドファンディング
115%達成!!
皆様のおかげで、目標額を超えて115%に達しました。起こったことが信じられず、しばし呆然としてしまったほどです。アフリカの真っ青な空の色が目に沁み、皆様の深いなさけが身に沁みます。この大変な世の中で、しかもコロナ禍で、それぞれがそれぞれに大変な思いを抱えている中、遠い地の、このささやかなプロジェクトに関心を寄せていただけるだけでも有り難いのに、ご支援までしてくださった皆様の貴いお気持ちを決して裏切らないためにも、必ずチーム全員の力を合わせてよい作品にしたいと存じます。
ブルキナファソは、マラリアが猛威を振るっています。親しい人たちが次々に子供を亡くし、言いようのない悲しみに打ちひしがれているのを見るのは大変つらいですが、これがアフリカの現実で、オペラの台本にもそれが描かれています。
悲しみの上にも容赦なく照り付ける太陽。それでも、前を向いてシャンと背筋を伸ばして生きている彼らの打たれ強さが作り上げるオペラの完成を、どうぞ楽しみにお待ちください。
チーム一同より心から「ありがとうございます‼」。
2022 1月の活動と進捗状況をご報告
1月の進捗報告は誠に盛りだくさんです。ニュースでご覧になったかもしれませんが、ブルキナファソでは23日の日曜日にクーデターが起こり、カボレ大統領は拘束され、辞任させられました。現在は暫定政府が統治しています。
夜間外出制限令が出され、21時までに帰宅することが義務付けられたため、2月4日に控えたボボでの公演の開始時間を大幅に繰り上げねばならないか、そもそも公演が可能かどうか、大きな不安を抱えたまま準備を進めるためには、強い信念と精神力が必要でした。
ボボでの集客戦略や会場設置、アンプリファイや録音録画のための機材の確認と調達…それらのためにマブドゥと私がボボへ向かって出発した日の朝早くクーデターは起こったのです。
私たちは予定通りボボへ向かい、2泊してできる限りの事をしてワガドゥグへ戻ってきました。外国人は外出しないようにとの指示が出ていたので少々不安ではありましたが、無事に戻って来られました。ボボ滞在中にすでに夜間外出制限令発布されましたが、ワガドゥグへ戻ったタイミングで、公演を延期すべきだの、キャンセルすべきだの、18時開演に変更すべきだの、いろいろなアドバイスが来て、ますます不安を掻き立てられました。そのようなことを簡単に言われても、このような比較的大きな公演を延期すると多大な費用が発生し、次はいつやれるのか、どうやって経済を立て直せばよいのか、主催する立場には大問題なのです。どうしても出来ないときは仕方がありませんが、慌てずに状況の変化を待って落ち着いて決断しなくてはなりません。
幸い、27日木曜日の夜には、夜間外出制限が24時までと延長されました。慌ててキャンセルなどしていたら元には戻せなくなっていたところでした。
話が前後してしまいますが、12月のご報告に、プロフェッショナルの演出家とそのチームと協働することになったと書きましたが、12月30日のリハーサル初日に、彼女の仕事の進め方に大きな疑問を感じ、翌31日にはその疑問は決定的な不信となり、この演出家との協働の話は白紙に戻す決断をしました。先払いした費用は無駄になってしまいましたが、そのまま進めていたら、きっと私たちの思い描くオペラとは似ても似つかないものになってしまったのではないかと思います。ブルキナファソにはオペラの歴史はないのですから、もちろんオペラの演出家などいるはずもなく、この演出家も演劇やコメディ、そして一度ミュージカルを演出したという話でした。人選ミスといわれれば誠にそのとおりで、貴重な財源を結果的にいくらか無駄にしてしまったことは、大変心苦しく、支援者の皆さまに幾重にもお詫びします。
このことで年末年始はいろいろ揉めて、ストレスからなのか体調を大変崩してしまい、散々でした。でも、もうこれ以上新しい演出家を探す時間もお金もないと腹をくくり、自分で演出する決心がつきました。これはある意味、長年の夢でしたが、思い切って挑戦することをたじろいでいたのです。ヨーロッパで数々のオペラを見てきたけれど、一度として演出に感動したことはなかったし、それどころか大いに疑問を感じることがしばしばでした。自分のこれまでのオペラの公演の演出家に関しても、必ずしも満足というわけではなかったのですが、オペラの演出はとても難しいので、自分でやるのはますます無理だと考えていたのです。でも、崖っぷちまで追い詰められてみると、アイデアが湧いてきて、仲間たちにもそれを示して、彼らのアイデアも募りました。すると、みんな次から次へといろんなアイデアを出してきて、様々な経緯で打ち沈んでいた雰囲気が一挙に回復しました!
小道具大道具も友人たちの力を借りたり、マブドゥと私でマリオネットを作ったり、そのプロセスもまた楽しいもので、みんなの隠れた才能を発見しました。手作りのオペラですが、下手に「プロフェッショナル」に頼ろうとするより、この方が新しいオペラを作るにはふさわしいという気がしました。ヨーロッパのクラシックオペラでは音楽監督(指揮者)、演出家が大きな権力を持っており、歌手や演奏家たちはいわば彼らの手足となって働くような光景がまま見られます。自分では1音も出さない人たちが全体を仕切るという構図の、メリットも確かにあるでしょうが、デメリットについても再考する必要があります。「プロフェッショナル」という概念が発達したことによって、仕事が細分化され、ピラミッド型の階級制度によって報酬も権限もごく少数の人々に集中する現状は必ずしもよい結果を生み出しません。誰かの手足となって働いているだけだという感覚は、参加者ひとりひとりのクリエイティビリティを制限してしまいます。
ブルキナファソの国の体制が大きく揺らぎ、変わろうとする今、過去から積み重なった不条理や不公平をどのように改善していったらいいのか、それは私たちのオペラ作りとも決して無縁ではないと感じます。
いよいよ一週間後に公演です。クーデターが起こったばかりのブルキナファソに、ドイツから二人のトーンマイスター(録音とそのプロデュースのドイツ国家資格です)が29日に来てくれます。彼らの知恵と力を借りて素晴らしい録画をお届けできるように、皆で最善を尽くします。どうぞ楽しみにお待ち下さい。
2021 12月の活動と進捗状況をご報告
12月は御報告しなければならないことがたくさんあります。
リハーサルは順調に進み、、、と言いたいところですが、私の書いた新しい曲を覚えるのに2ヶ月近くかかってしまい、こんなスローなペースでは何事も成し遂げられないと喝を入れなければなりませんでした。確かに原詩(フランス語)がかなり長く、曲も14分くらいの長さです。最愛の妹をマラリアで亡くし、以来四半世紀が経っても喪失の痛みは昨日のことのように感じられるという内容の歌詞です。その切々たる哀しみが、フランス語を解さない人にも伝わってこそ、音楽の力の本領と言えるのだから、そこを理解して表現の高みを目指してもらうように頑張って説得しました。マブドゥが隣国のベナンに出稼ぎに行き、8日間で戻るはずのところが11日間に延びてしまいました。その間に他のメンバーの遅れをきちんと取り戻し、弱点を克服しておきたいという私の願望が実らず、というのは、あれやこれやの理由で、リハーサルに全員が揃う日がなかったからなのです。私は彼らに月々のリハーサルのための給料を支払っていますが、それは生活を支えていくのに十分な金額からは程遠く、彼らが他の仕事を犠牲にできないのは無理もないことですが、事情を考慮して月水金の午前中と定めているリハーサルすらあれやこれやの理由でサボられてはこちらもやっていられません。練習回数が少なくても仕上がりが良ければ、それでいいのですが、真面目にリハーサルに来る人ほど自分自身のパートはきちんと仕上げられていて、サボりがちな人ほど自身で自分のパートの準備することもできておらず、人に迷惑をかけます。
腹を割って話したので、みんな私の不満は最もであると納得してくれ、気持ちを引き締めて来たるべき公演に備えようということになりました。
この間、私はずっと演出家を探していまして、地元の大歌手のマイ・リンガニの紹介で、エドクシ・グヌーラというブルキナファソの女優・コメディアン・演出家で、演劇協会の副会長を務める40代の女性に会いました。他にも数名の演出家候補を紹介されましたが、今まで決定に至りませんでした。しかし、公演日は迫り、今回も演出家無しで公演するのは避けたいと思い、この方に最後の望みをかけていました。
彼女は12月20日に私たちの音楽リハーサルを見に来て、その直後から私との交渉に入りました。誰の目にも明らかだったことは、彼女はれっきとしたプロフェッショナルとして仕事をし、それもアフリカ的な意味のプロフェッショナルではなく、西洋的な意味のそれだということです。最初から、20回の舞台稽古を要求し、それはどこかの本格的なステージを借りて、照明や音響、大道具小道具などの全てを備えた状態で演出家として稽古をつけるという意味です。ミュージシャンは当然、常時そこに侍って演奏しなければなりませんし、歌手たちは(もしかしたら楽器奏者たちも)動きや演技の練習をします。これはオペラ制作としては当たり前のこと、ですが西洋諸国のオペラ座のようにステージを所有していて、国家や都市からかなりの予算をもらっていて初めて可能なことで、個人的なプロジェクトで、公演のできるような設備を借り切って20日間もリハーサルをしたらたちまち破産してしまいます。
彼女がこの要求をあっさりと出した時、ミュージシャンたちはあっけにとられたような顔で見ていました。私はといえば、オペラとはそういうものだという事を、いろいろな言い方で今まで伝えて来たものの、やはり彼らに具体的に理解できていたはずもなく、ここへきて同国人のプロフェッショナルの演出家からそのように言われたことは、かえって良かったのかなと思いました。でも、彼らにとってまず問題だったのは、グリオが結婚式や洗礼式などの催しで演奏する木曜日、土曜日、日曜日の午後にもオペラの練習を要求されたことでした。つまり、夜でないと照明が使えないからなのです(これはまことにアフリカ的事情で、アフリカではステージは屋外、もしくは半屋外に設置されているので、太陽の出ている間は照明が使えないのです)。
これについては、グリオの反発は強く、まだ互いの合意に達していませんが、ともかくも私はエドクシさんと契約することに決めました。今まで和気あいあいとやって来たプロジェクトですが、一皮向けて、格の高いものにするには演出家の力が必要です。そして演出家という独立した存在・仕事は我が国の能や歌舞伎にもありませんが、アフリカの文化にも史上なかったのだと思われます。ですからエドクシさんは生粋のブルキナファソ人ではありますが、彼女の考え方や行動様式はかなり西洋的な印象を与えます。それも無理からぬことなのでしょう。
彼女と彼女のチーム(舞台美術、照明、音響、衣装、アシスタント)の経済的な要求もかなり高く、ボボ公演の予算は当初の概算の2倍以上に膨れ上がりました。そのため、予定していたセカンド・アルバムの録音を延期し、ボボ公演も2月4日の一回のみにせざるを得ません。5日の公演をキャンセルせざるを得ないのは、予算の削減のためだけではなく、エドクシさん自身がコメディアンとして出演することになったからでもあります。5日は彼女は別の公演(彼女の独り舞台)の予定が既に決まっているのです。
クラウドファンディング・キャンペーンの概要に書いていた予定に変更が生じました事を、深くお詫びいたします。どうぞ諸事情に鑑みてご寛恕くださいますよう、心よりお願い申し上げます。
ワガドゥーグー市内のイベント・スペース「Ganbidi」はボボの「Les Bamboo」に勝るとも劣らない広々としたイベント・スペースです。ここを20日間前後借りきることになりましたので、1月20日にはここのステージで、公開リハーサルの形で、本番公演さながらの舞台を披露して、知人や有識者をお招きし、アドバイスをいただく予定です。そこからさらに磨きをかけて、ボボの公演に備えますので、どうぞ楽しみにしていてください。
リハーサルや公演の模様は、部分的にNHK国際部にご提供することになっておりまして、遠からずNHKが編集し、何らかの形で放映してくだざる予定になっております。
最後に、悲しいニュースですが、フランシス・ケレさんの甥御さんヤクバ・ケレさんが自宅前で強盗に殺されるという事件が数日前に起こりました。二十歳を過ぎたばかりの、この上なく闊達で、輝くばかりの美貌の青年でした。ケレ家には私も数ヶ月にわたって滞在し、ご家族全員にとてもお世話になりました。突然このような形で長男を喪ったフランシスのお兄さんご夫妻、ヤクバさんを目に入れても痛くないほど可愛がっていたフランシスのお母様の悲しみは察するに余りあり、慰めの言葉もみつかりません。犯人はバイクを奪って逃げ去り、この国ではこうした強盗殺人の犯人が逮捕されることも滅多にありません。
故人の冥福をお祈りすると書くべきところですが、ショックの余り、私自身まだ呆然としています。
次のご報告はいよいよボボの公演直前です。良いご報告のできます事を祈るばかりです。
本年のご支援にあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。
どうぞ健やかに新年を迎えられますよう、アフリカの空の下より祈念いたします。
2021 11月の活動と進捗状況をご報告
11月6日、地元の人気スポット、プティバザールでのライブ・コンサートで幕開けした11月は、予期せぬ大変な月になってしまいました。14日に大きなテロが起こり、続いて16日にもテロがありました。リードボーカルのマブドゥの従弟(いとこ)が14日に襲われた憲兵隊にいて、未だに消息不明で、とても沈痛な気持ちです。
ボボでもワガドゥグーでもドーリでもデモが行われ、政府のテロ対策の無能を糾弾して大統領の辞任を求めました。同時にに「フランス軍出ていけ!」も叫ばれていますから、今ここにオペラ制作チームのエルベ(フランス人です)が来ていなくて良かったのかもしれないと思いました。
14日のテロは金鉱のある場所で起こりました。ブルキナファソには金鉱がたくさんありますがよくテロの標的になります。マブドゥの一番仲良しの従弟のバキスの弟が襲われた憲兵隊にいたのです。17日の朝、バキスは朝から男泣きに泣きながら電話してきて、マブドゥに軍の本部に出向いて情報を聞いて来てくれと頼みました。バキスは警察官でマリとの国境警備に就いていて、職場を離れられなかったので。
そこでマブドゥは朝食もそこそこに出掛けましたが、結局安否は確かめられず… 焼かれてしまった犠牲者たちも多いらしく、そうなると誰なのか確認できないそうです… また、国民の怒りが盛り上がってきているので、政府は本当の死者数を隠して少なめに言っているという噂もありました。
こういうアフリカの現実をオペラでは描こうとしていますが、現実の只中にいてその現実を描くのは難しいとあらためて感じています。
クーデターが準備されているという噂もありました。マブドゥや周りのブルキナファソ人の言うには、カボレ大統領はずっと過酷な条件をフランス政府から突きつけられ続けていて、それに抵抗すると(Noと言うと)フランスがテロリストを操作してあちこちで攻撃をさせている、というのです。そして最後にはクーデターが企てられ、降ろされてしまうと…
もちろんフランスの公式な発表とは全く異なる内容ですが。
17日夜、私たちの住むブルミューグで大規模なデモがありました。フランス軍がたくさんの戦車などの大型兵器をコートジボワールの港で荷揚げし、ブルキナファソ領内に入り、ボボ経由でワガドゥグーへ輸送中でしたが、それを止めようとしていて起こったデモです。「フランス、出ていけ」「私達はあなた方を必要としない」がシュプレヒコール。
一般市民が旅行するときには、あちこちで止められて検閲を受けます。でもフランス軍の武器輸送などは一切の検閲を受けず、ひいてはテロリストたちも検閲を受けることなく行き来しているというのです。(それが可能なように裏で手筈がされているとのこと) だからブルキナファソ国軍よりずっと優れた武器を持つテロリストたちは国中を自由に動いてテロが収まるはずもないとの話です。
制作チームのビデオアーティストのエルベは1月半ばにブルキナファソへ来て、ボボの公演の準備に加わる予定です。ブルキナファソ人は基本的に穏やかですし、国家としてのフランスやフランスの政策を嫌悪していても、フランスから来ている一個人に対して暴力的になったりすることはまず考えられない人たちです。もちろん個人的にエルベを知る人たちのエルベに対する気持ちは以前と何も変わらないと思います。ですが、現在の雰囲気を考えますと、来てもらうことに少しためらいがあります。
同じく17日に、テロリストたちと内通していたと見られる軍の上層部の人が逮捕される直前に自殺したそうです。14日に襲われた部隊は、かなり前から食糧が底を突いてしまい、うさぎを狩りに行ったりして細々と食いつないでいた状態で、病気の人の薬なども全然補給されていなかったことが判明、それはそういったものを調達する命令を出すはずの人がテロリスト側と内通していて、その手配をわざと止めていたというのです。その当の人物の自殺で、組織的犯罪を洗い出すことが難しくなったとか…
1958年にギニアが他の諸国に先駆けてフランスから独立した時、ギニアを去ることになった3000人ほどのフランス人たちは、価値あるものを様々略奪した挙げ句、植民地時代につくられた学校、保育園や、本国に持ち帰れない車、トラクター、いろんな設備、牛などの家畜、蓄えてあった食料にまで放火し、破壊し、独立なんてしようとしたらこうなるからな!と周辺諸国に見せつけたそうです。トーゴはその後、穏健に独立を果たそうとし、当時の大統領は旧植民地税の支払いにもサインしたけれども、自国の通貨だけは作りたいと思い、それを始めた3日目に、フランスの雇った元フランス外人部隊(アフリカ人だけど、フランスに雇われている傭兵です)に暗殺されました。
未だに「植民地時代のフランスの恩恵に対して」という名目で、莫大な旧植民地税なるものをアフリカ13カ国に支払わせている
(トーゴは2014年までの支払い)実態は、悪い冗談としか思われません。そもそもcfa(西アフリカに旧植民地が今も使わされている通貨です)はEU連合からも避難されている邪悪この上ないシステムで経営されています。それやこれやで毎年5000億ドルがこれらアフリカ諸国からフランスの国庫に流れ込んでいく仕組みです。5000億ドルというのはフランスの国家予算(歳入)の36%に当たるのです。
この他にも様々のやり口でアフリカからお金を吸い上げているフランスは、まさにアフリカにどっぷり依存したパラサイト国家です。全てのフランス国民にこの事実を知って、それを恥ずかしく思わないのか、本気でこれを続けるのか、自問してほしいです。知らないというのは許されるべきことではないと思います。
20日土曜日の夜遅くから、ブルキナファソ全土の公共WiFiがストップしました。各社(といっても全部外資系です)一斉にです。電話は出来ましたが、インターネットアクセスやモバイル通信はだめでした。各地の市民が連携してデモをするのは難しくなってしまいました。それが目的だったのでしょうけれども。
ほとんどの人民がコミュニケーションできなくなっている8日の間に、フランス軍はデモにより足止めを食らっていたカヤという都市からワガドゥグー方面に引き返し、今度働いて迂回した道を通ってニジェール領内に入り終えましたが、そこでは凄絶なデモが起こり、市民の血が流されました。
22日に、私たちは沈痛な中、朗読会を行い、オペラの台本のもとになっている小説の第一章を深く理解することに努めました。コンゴ共和国での市民戦争
を描いている第1章です。今後も2章、3章の朗読会を続けていきます。
19日にワガドゥグーのフランス文化センターの新しいディレクターと会見し、3月5日に大ホールで公演することになりました。これについては少し悩みましたが、そこがブルキナファソ国内で一番音響設備などの優れたホールであることは否めず、かつ収入源も必要ですし、作品を通して何かを訴えていくとしたら、そこでやることも意義があるという判断になりました。
下旬には次々とラジオ局を訪問し、私たちの曲を流してもらったり、番組に生出演する話が決まりました。
1月には、もうすぐオープンする新しいスタジオで2枚目のアルバムを録音する予定で、新曲の練習に励んでいます。マブドゥも創作に集中する時だけ、心を押し潰す心配から瞬時開放されるようです。でも、もちろん新曲は今の心情を組み込んだものです。
消息不明の従弟は、テロリストの捕虜になっている可能性があります。生きていてくれることを信じて待つしかありません。
2021 10月の活動と進捗状況のご報告
10月の活動と進捗状況をご報告させていただきます。オペラのストーリーの基礎となる小説を執筆しているマーシャルさんから第2章、3章が届いて、それらのシーンに作曲し、新しい部分を週3回集まって練習しています。第2章はアンゴラから逃れてきた政治難民のストーリー、第3章は幼い妹をマラリアで失う場面です。雨季にはマラリアが猛威をふるい、身の回りでも次々に子どもたちが亡くなりました。まさにアフリカの現実です。マーシャルはアフリカの様々の混乱をブラック・コメディ風のタッチで描きますが、妹の死の場面は純然たる悲しみに満ちています。
ブラック・コメディと悲劇が入り交じるストーリーを舞台で効果的に展開していくための、舞台用脚本の制作のためにジュスタン·ディアラさん(Justin Diarra)に制作陣に参加してもらいました。彼はグリオの出身ですが元々学校のフランス語教師で、遠い学校に毎日自転車で通っていましたが、その自転車をある日盗まれ、通えなくなって学校をやめざるを得ませんでした。今はグリオの伝統技の織物の仕事をしていますが、文才豊かで、グリオの芸能の衰退を憂う彼は、トーキングドラムについての詳細を個人的に記述してまとめたりもしています。
キャンペーンページの概要でもお知らせしましたが、ブルキナファソの歌姫マイ·リンガニさんがプロジェクトに加わってくれて、チーム一同素晴らしい刺激を受けています。彼女はブルキナ·エレクトロニクスというバンドでヨーロッパでも活躍していて、現在もヨーロッパツアー中です。離れていても、私たちの新曲の録音をファイルで送り、それを聴いて彼女のパートを準備してくれています。ヨーロッパ社会の習慣や仕事の進め方にも精通している彼女のような存在が加わってくれたことは、私にとっては本当に有り難いのです。アフリカにはアフリカの物事の進め方がありますが、それのみを押し通すと国際的なプロジェクトとして動くのが難しい場合もあリます。彼女はとても謙虚な人柄で、決して高みから物を言ったりはしませんが、彼女の態度や振る舞いそのものがみんなに国際人としてのモデルを示しています。
リードボーカルのマブドゥは、最近ボロボロのスマホをようやく買い換えることができ、スムーズになった通信でマネージャー的役割に邁進し始めました。早速、P'tit bazarというワガドゥグーの人気スポットに売り込みに行って、コンサートの仕事を取ってきました!11月6日土曜日に演奏します。オペラの中の曲をメドレーで演奏し、コメディも間に入れていきます。そのため来週は毎日リハーサルです。
作曲家よりコメント 藤家溪子
2011年にフランス·コンゴ研究所が主催したライティング·コンペティション「Dis-moidixmots」で1位を獲得したMoyi MBOURANGONはラッパーとして長年活躍してきました。それに飽き足らず、新たな表現領域を模索して、初の長編小説に着手しました。私はその小説をもとに、オペラを制作しています。
Moyiは常に自身の母語-リンガラ語で考え、そしてフランス語で執筆します。
アフリカのフランス語圏では様々の現地語が活発に話され、ほとんどの人々は、バイリンガルならぬマルティリンガルです。しかしながら、教育の普及はまだまだ十分ではなく、公用語であるフランス語を解さない人々も決して少なくはないのです。
この特殊な言語環境において極めて敏感、かつ、意識的なMoyiの創作には非常に魅力があり、それをオペラ化することで以下の3点が期待されます。
1. アフリカ固有の言語感覚や思考プロセスがフランス語で表現され、フランス語に新しい地平が開かれること。
2. フランス語の原文がMoyiの母語·リンガラ以外のアフリカ言語に訳されるとき、アフリカの民族間の感覚、習慣の微妙な違いからヴァリアントが生み出されること。
3. それらがオペラの歌詞となったとき、言語を超えた音楽の表現と渾然一体し、私たちは意識の言語化という一種の軛から半ば開放され、意識本来の豊かさを取り戻す可能性があるということ。
また、小説の内容そのものが、ヨーロッパや日本の人々の、アフリカ社会への興味と理解を刺激し、促進するに足る、Moyiの、いわば自伝的作品であることを付け加えさせていただきます。
プロジェクトの沿革
2019年1月に、私はブルキナファソ出身の世界的な建築家Francis Kéréとドイツで出会い、オーストリアの演出家·Christoph SchringenziefがスタートさせたVillage d'Operaの話を聞きました。10年前に、アフリカ×西欧のガッツリとぶつかり合う形でのコラボレーションにより、今までにないあたらしいオペラを作ろうという夢を描いて、Ouagadougouからそう遠くない場所にComplex Siteが建設され、Village d'Operaと名付けられたのです。
しかし、着工まもなくShurigensziefは他界し、Siteの中心に建てる予定だったオペラハウスも全く建設の目処が立っていないようです。
私はFrancisに、オペラハウス以前に、まずアフリカ人たちとのコラボレーションでオペラを1つでも完成させるのが先であり、アフリカの風土と音楽、そして文化全体に馴染んでいけるオペラ、それにはどんなハウスが必要なのかはそれらの経験の積み重ねの上で考えるのが妥当だと提案しました。ブルキナファソの気候でしたら屋外公演も可能です。
Francisも心から賛成してくれ、また、ヨーロッパに限定せず、日本とのコラボレーションでオペラを制作することに、たいへん魅力を感じてくれています。私たちは、オペラ制作をFrancisの故郷、Gando村の、彼がコミュニティーの人々を総動員して作り上げた学校で行うことを計画しました。
そんなわけで、2019年7月に初めてブルキナファソを訪れ、Gando村とその学校を見て、人々と交流を始めました。しかしながら、コロナの影響というだけではなく、私自身がアフリカの音楽と文化を学ぶ必要から、まず、Gando村ではなく首都Ouagadougouで伝統音楽継承者たち(griotと呼ばれる家族集団)とオペラ·プロジェクトを開始することにしました。
現在3回目の訪問で、滞在は計1年2ヶ月になります。ようやく現地語(Moore)でコミュニケーションが出来るようになってきました。griotたちとのとのコラボレーションは順調に進んでおり、4月23日には現地のInstitut Françaisで新作オペラの第1幕を発表します。今までのところは自分のポケットマネーで彼らとのアルバム制作から小さなコンサートまで行ってきました。資金不足やコロナの影響の苦労もありますが、思う存分の時間をかけてアフリカの人々から学び、自分のほうからも新しい要素を提供し、ともに作り上げる喜びを共有しています。
なんといっても世界最貧国のひとつに数えられる国ですので、最初のうちこそ人々の暮らしぶりの貧しさに驚きましたが、最近は慣れて来て、慎ましい家を建て、現地の人と変わらない暮らしをしながらのオペラ制作です。